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『COVERS』(カバーズ)は、RCサクセションが1988年(昭和63年)8月15日に発表したカヴァーアルバムである。 == 解説 == 洋楽のカバーアルバムとして釘打たれ、全曲、洋楽のヒット曲に日本語詞をつけた内容。ゲストとして山口冨士夫、三浦友和、泉谷しげる、更に桑竹居助の偽名にてサザンオールスターズの桑田佳祐らが参加している。 本来は、所属レコード会社の東芝EMI(現・ユニバーサルミュージック EMIレコーズ・ジャパン)から1988年8月6日(広島平和記念日)に発売される予定だった。しかし、「ラヴ・ミー・テンダー」と「サマータイム・ブルース」で反核と原子力撤廃が歌われており、特に後者は露骨な原発批判の反原発ソングのため、自身が日本の原子炉サプライヤーでもある親会社の東芝からの圧力がかかった。先行シングル「ラヴ・ミー・テンダー」(6月25日発売予定)ともども、「素晴らしすぎて発売できません」という新聞広告(1988年6月22日付全国紙)と共に発売中止となる。 この発売中止事件の真相は後に明かされたところによると以下のとおり。FM大阪で当時忌野清志郎が担当していた番組「夜をぶっとばせ」のスタッフ慰労会が催された1988年6月9日の夜、忌野は同会には参加せず当時の東芝EMIの邦楽最高責任者、石坂敬一統括本部長に呼び出されていた。その場で、『カバーズ』の発表を見合わせたい、もしくは「ラヴ・ミー・テンダー」「サマータイム・ブルース」「マネー」「シークレット・エージェント・マン」の4曲をカットすれば発売してもいいという申し出を受けていた。元々1987年末の時点では3枚組という構想にまで達していた『カバーズ』はそれまでに既に11曲にダウン・サイジングされており、さらにそこから4曲をカットしたわずか7曲のミニアルバムにしろとの話であった。「ロックの東芝だからこそメッセージ色の濃い作品を出すべきだ」と主張する忌野と石坂の話し合いは平行線をたどる。交渉は翌日も続き、東芝EMIでも再度会議が行われたが、結局東芝内での決定は覆らず発売の中止が正式に決定する。これを聞き呆れ怒った忌野が訴えた「素晴らしすぎて出せないっていうんだったら、それを新聞に出してくれ」との言葉のみが受け入れられ、上述の新聞広告掲載となり、同時に発売の中止が決定した〔別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して〕。当時東芝EMIの社長は東芝本社からの天下りだった。石坂は忌野との関係破綻を憂えて再考を求めたが、社長から「(絶縁されるならそれはそれで)止むを得ませんね」と返されたという〔(5)清志郎「ひ、ど、い」 東京新聞特集【日米同盟と原発】第9回「漂流する核のごみ」〕〔東芝EMIは「東芝音楽工業」時代にも、ジョン・レノンの「パワー・トゥ・ザ・ピープル」の邦題を、親会社に配慮し「人々に勇気を」に改めさせている(正しくは「人民に力を」)〕。 だが、本作を望むファンの声が高まり、またマスコミに取り上げられたことで世論の後押しもあり、シングル、アルバム共にRCサクセション(以下、RCと略す)の古巣キティレコード(現・ユニバーサルミュージック)から8月15日(終戦記念日)に発売が実現した(皮肉にも後に石坂はユニバーサルミュージックの代表取締役に就任し、同社に移籍した忌野のアルバムを発売中止にしている)〔現在は、キティレコードが吸収されたユニバーサルJから再発CDが発売されており、キティレコードから発売されたオリジナル盤はすべては廃盤である。〕。 発売中止騒動や過激な内容の話題性から、シングル・アルバム通じてRC初のオリコンチャート1位を獲得。RC唯一のオリコン1位獲得作品である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「COVERS (RCサクセションのアルバム)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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